生き急いでいるのは、たぶん本当に好きな事をやっていないから。

文月詩乃(@traveling_shino)です。

前回の記事をUPしてから、早くも3ヶ月が経ちました。

「だって仕事が忙しかったんだもん」なんて自分に言い聞かせながら、だましだましこの3ヶ月を過ごしてきたように思います。

むしろ「忙しさ」を理由に、やりたいと思っていた「文章を書く」ということから逃げていたようにも思います。

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好きな事をやっているはずなのに苦しい

比較的「好きなこと」が明確だった私は、何が好きで何がやりたいのかを明言し、実行しながら生きてきました。

でも、この一年でたくさんの「好きな事をして生きている」人たちに会うたびに「私のやっている好きな事とは何かが違う」と感じていました。

好きなことをして生きている人は、みんな人生楽しそうです。まぶしいくらい。それと比べて私は、好きな事をやっているはずなのに、どこか生き急いでるようで苦しさが付きまとっています。

どうして私は生き急いでるんだろう、なんて、ふと立ち止まって、自分の好きな事・やりたい事・やりたいけどやってない事を並べてみると、3つかの共通点が見えてきました。

①好きな事をやっているフリをしていた

自分がやりたい!って思ったことに嘘はないんです。

嘘はないんですけど、「好きな事かつやりたい事」の範囲が「それを実行したことによって周囲の人間が喜ぶ」範囲に限定されていたのです。

せっかく声をかけてもらったし、参加しようかな。

こういう企画したら、みんな喜んでくれるかな。

等々。こんな発想自体は決して悪くないと思うんですが、私の場合この考え方に極度に依存していた気がします。このブログが良い例で、人に役立つ情報を書いた方がみんな喜ぶ→迷走→なんとなく書けなくなるという無限ループにはまっていました。

まず、自分が自分のために楽しまないといけないんですけどね。ついつい、人が楽しむ→だから自分も楽しいという発想でいっぱいになってしまいます。誰かの人生の中で「自由人」をひたすら演じていたのでしょう。

②会ったこともない人に、どう思われるか気にしていた

私は旅行が好きで、文学とか文化が好きで、中でも神社仏閣や神話が大好きです。

でも、いざ神話とかの話をしようと思うと心のどこかでブレーキを踏み込む音が聞こえてきます。耳を澄ますと聞こえてきます。

本当は文学とか小説家気取ってんじゃないの?かっこつけてんの?なんて思われたらどうしよう。

神話とか神社好きとかライトウィングな人なの?とか思われたらどうしよう。(昔そういう人に勘違いされたので)絡まれたらどうしよう。

頭では「まだそんなこと言われてないじゃん」「言われるとも限らないじゃん」「言われても無視すればいいじゃん」って思ってますが、心がついてこない。

そう思いながら書いた自分の文章は、常に会ったことも無い誰かの顔色を伺っていて、なんだかぼやけて見えました。

③できないのが怖かった

結局、私も「やればできる」という幻想につかり続けていたかったと、やっと自覚が芽生えました。というより、1年かかって現実を直視できるようになりました。

Jさんのブログを読むたびに「うんうん、そうだよね」とか共感していたくせに、自分自身は見て見ぬふりをするとはなんと愚かな…。

結局できない=周囲の人の期待を裏切ることになったらどうしよう。という思考が脊髄反射レベルで刷り込まれているので、「対してPV数もないブログのくせに何言ってやがる」と自分自身で気付く余裕が無いのです。ああ恥ずかしい。

「他人が」ではなく「自分が」好きな事をする

結局、①誰かの人生の中の「自由人」という役を演じていた私は、②誰かの顔色を伺いながら、③自分自身を裏切らない範囲での「好きな事」しか実行していなかったのです。

好きな事・やりたい事をやっているはずなのに、いつも生き急いでる・やり切った気がしない・どことなく燃え尽き症候群、という感覚にさいなまれるのは、制限付きの「好きな事」から選択し続けていたからだと気付きました。

おお、なんと受け身な「好きな事」なのでしょう…!ダサすぎる…!

とは言っても、「はい!自分の好きな事をやりましょう!」なんてなかなか切替づらいものがあるので

まずは、私が好きな事ってなんだろう、やりたい事ってなんだろう、と一つずつ見つけて磨いていきたいと思います。

それでは、これにてドロン。

文月詩乃
「やってみたいをカタチにする」をモットーに日々試行錯誤中! 「行ってみたい!」は47都道府県を訪ねる旅に、「引きこもりたい!」は日々の事務処理を仕組み化することで実現させることを目標に活動しています。2017年8月より、フリーの「事務処理屋」としての活動を始めました!